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「何もない」がそこにある。贅沢の正体について。

今日は「贅沢の正体」について書いていく。

金沢の鈴木大拙館という建築物に行って感じたことだ。

ちなみに、鈴木大拙は金沢が生んだ世界的・仏教哲学者らしい。

建物内はシンプルな造りで、瞑想したり、ゆっくり本を読むのに最適な空間だった。

ただ、本当に何もない。

あるのは四方をコンクリートで囲まれた池のみ。

水面も浅く、鯉が泳いでるわけでもなく、地面に模様が描かれてるわけでもなく、無。

しかし、その空間には「何もない」がある。

「何もない」から、自分に向き合う時間が生まれる。

もし、そこに派手な作品が点在していたら、意識は外側に向いていくだろう。

しかし、「何もない」からこそ、自然と意識が内側に向いていく。

これは、すごく贅沢な時間だなと思った。

と、同時に贅沢の正体が分かった。

贅沢の正体とは、対比である。つまりコントラスト。

現代は物質的に豊かな社会になった。

だから、「何でもある」のが日常なのだ。

贅沢とは対比なので、非日常的なものを人間は贅沢と感じる。

「何でもある」のが日常だから、「何もない」が非日常になり、それは贅沢なものとなる。

高度経済成長のときに、鈴木大拙館があっても、それは日常だから贅沢でもなんでもない。

しかし、物質的に満たされた現代だからこそ、「何もない」ことの希少価値は高い。

毎日牛丼を食べてる人がステーキを食べると、それは非日常なので贅沢になる。

だけど、毎日ステーキを食べてる人がステーキを食べても、それは日常だ。

つまり、手軽に贅沢をしたいなら日常を把握して、ひっくり返していけばいい。

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