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「生きづらさ」を感じているすべての人々へ―ぼくらは仮面をつけて生きているけれど

くまもん posted by くまもん

ぼくは哲学が好きだ。

哲学は実生活では役に立つのかと言ったら微妙である。

ただ、哲学はありとあらゆる束縛から人を自由にしてくれると確信している。

 

ぼくらは仮面をつけて生きている

人は社会的な生き物だとよく言われているように、ぼくらは生まれ落ちたその瞬間から、社会という舞台に放り出され、そこに組み込まれ生きていくことを余儀なくされる。

 

社会は自由じゃない。

色んなルールでぼくらを縛っている。

そして、それでもって個々に役割を与えている。

 

ぼくらは、社会によって勝手に与えられた役割を、社会という舞台の中で演じている。

社会の中では、個々の役割を果たすために誰しもが仮面を被っているんだ。

 

ぼくらを縛り付けている仮面。

 

だけど、その仮面を外そうとすると、ぼくらは社会から抹殺されてしまう。

だからぼくらは、演じることの不自由さを感じながら、自分と葛藤しながら、仮面を脱げないまま、惰性のまま、生きていく。

 

何のために?

死ぬために。

 

「生命」という契約の中で

生命とは契約期間だ。

死でもって、その契約は完了する。

死からは、誰も逃れられない。

 

だからぼくらは、死ぬために今を生きているとさえ言える。

社会によって仮面をつけられ、死ぬために社会という舞台の中で踊り続けている。

 

そんな人生、「幸せ」と言えるのだろうか?

それでも、生きている限り幸せなのだと哲学者のレヴィナスは言う。

レヴィナスは、ユダヤ人として第二次世界大戦時代を生きていた。

自身はドイツに拘束され、家族はほぼ全員ナチスによって殺された。

 

だからこそ、生きていればどんな状態であったとしても幸せなのだと彼は確信していた。

レヴィナスのように、強大な権力に四肢を縛られ、食べ物も満足に与えられず、住んでいた町が廃墟のようになったとしても、生きている限り、この地球上にあるすべてのものを享受しているから。

 

ぼくらが自由であるために

とは言っても、やっぱり仮面をつけて舞台で踊らされていることの不自由さはある。

この不自由さに耐えきれなくなって、自殺をしてしまう人だっている。

 

より自由に生きることはできないのだろうか?

できると私は思う。

不自由さを感じているのは、役割が社会から与えられたものだからだ。

 

だったら、その役割を自分で見つければいい。

 

他者がぼくらを自由に導く

自分のためだけに生きていこうとすると、与えられた役割に押しつぶされてしまう。

だからぼくらは、自分のためだけに生きる人生から逃走しようとする。

 

逃走した先にあるものは、自分以外の誰か。

彼らは、自分のために生きるぼくらに〈顔〉を向ける。

 

顔と顔が向き合ったとき、今まで自分のためだけに要請された役割を果たそうと消耗していた自分に変化が訪れる。

 

今まで自分のためだけに生きていたぼくらが、その存在のために生きたいと願うようになる。

レヴィナスはこの存在を〈他者〉と呼んだ。

 

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